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2019.11.17 配信アーカイブ
Sound States Cafe_vol.2
guest:クリヤマコト(ジャズピアニスト・作曲家)

簡単に配信できるSTUDIOレンタル / セミナーや説明会を世界へ発信できるインターネット配信サービス

Coco-de-sica.TV - Education
Sound States Cafe vol.2

自然体、それが僕の音楽のバックボーン。

ジャズピアニスト・作曲家:クリヤマコト



アジアを中心に活躍する実力派のアーティストを、
ネット配信を通して紹介する音楽番組、Coco-de-sica TVの『SOUND STATES』。
その『SOUND STATES』のスピンオフ企画『SOUND STATES CAFÉ』では、
アーティストをはじめ、音楽界で存在感を発揮するプロフェッショナルたちが、
自分自身の言葉で、自分自身の音楽の原点、
作品や演奏の背後にあるものなどを語ってくれます。
第2目となる今回は、ワールドワイドなステージで活躍する
ジャズピアニスト・作曲家のクリヤマコトさんをゲストにお迎えしました。

音楽と英語が得意な少年は、
アメリカ留学を決意。

僕は、生まれてはじめの10年は関西で、そのあとの10年は関東で、そして次の10年はアメリカで暮らしました。幼少期から青年期の20年間は、それほど努力はしていないのに、たまたま英語と音楽が得意な子供として過ごしました。
父親はハワイアンのバンドをやっていました。1930年代生まれなので、若い頃に太平洋戦争を経験し、終戦を迎えたのち、駐留軍のバンドに雇われました。何もかもが混乱のさなかにあった時代。その当時は、ハワイアンやカントリー、ジャズといった音楽を、エンターテインメントとして米軍の兵隊に聴かせることがごく当たり前に行われていました。本国のアメリカから連れてくることができるバンドはほんの一部です。なので、現地で人を見つけなければなりません。ドラムのスティックとかギターを持って駅に立っていると、「お前、演奏に来い」と言われ、片っ端から駐留軍のキャンプに採用されたのです。
父親はミュージシャンになりたかったので、駐留軍で音楽の仕事をしていたわけですが、音楽の仕事はたいへん厳しいということも分かっており、ミュージシャンはあきらめ、普通のサラリーマンとして生活するようになりました。
自分の子供が、いくら音楽が得意であっても、音楽を仕事にするのは簡単なことではない。それを承知していたので、高度経済成長の時代ということもあり、「サラリーマンになって、音楽は趣味で」という設計図を描いて、父親は僕を育てました。だから、僕がミュージシャンになることは絶対反対でした。
僕がプロとしてやりはじめて、最初のアルバムをつくり、2枚目、3枚目を出し、いまでは20枚くらいになりますが、新しいアルバムを出すたびに父親にこういうアルバムをつくりました、と報告に行っていました。しかし、父親からは「それは分かった。けれど、いつ辞めるんだ」と、そればかり言われました。コンサートにも、結局1回も来ずに終わりました。そんな父親でしたので、高校を卒業したら、父の目の届かないところに行って、好きな活動をしたほうがいい、と思うようになりました。ただ、僕がこれから大学に行っても、仕事に就いても、それがミュージシャンになるためのものだったらまた反対されるので、普通の大学の、普通の学部に行ってしばらく様子を見ようと考え、アメリカに行くことにしました。

音楽人生、そのスタートは
ピアノのお稽古から。

音楽に関しては、はじまりは子供を対象にしたピアノのレッスン、いわゆるお稽古事でした。4、5歳くらいからピアノをはじめたのですが、父親の仕事上、転勤が多く、そのたびに引っ越しをしなければなりません。そのせいで、同じ先生に継続してつくことができない。それが子供としてはイヤで、結局ピアノのお稽古は止めてしまいました。
中学高校生になると、いろいろ遊びや部活もやるようになり、そこで知り合った仲間同士で音楽の話もするようになりました。ジャズだけでなく、ちょうどプログレ(プログレッシブロック)が流行っていたこともあって、仲間内でいろいろなレコードを交換し合いながら、ジャズって面白いな、プログレって面白いな、ということになり、バンド活動をやるようになりました。
もちろん、その前から父親がハワイアンやジャズが好きで、家で音楽をガンガンにかけていました。それが、多分、僕の中でいちばん大きいのではないかと思います。レコードもかけていたし、FMもジャズの番組、ポップスの番組といろいろ聴いていました。
僕がアメリカに行く、ちょうどその頃、カーペンターズが大ブレークをしていて、日本のAM放送をかけると、どこの局でも1時間に1度はカーペンターズの曲が流れていました。ほかにも、シャカタクなどインストロメンタルでも大ヒットがあって、チャック・マンジョーネ、ハープ・アルパートなどがヒットチャートをにぎわしていました。ある意味、ジャズやフュージョンにとっていちばん良き時代だったのです。家庭内だけでなく、社会的にも、ジャズ、ポップス、カントリーなど、いろいろな音楽が聴ける状況にありました。

音楽学科の練習室が、
プロへの道につながる。

1979年に僕が行ったのは、ウエストヴァージニアにある州立のウエストヴァージニア大学です。ウエストヴァージニアというのは、アメリカのド田舎。その州都のモーガンタウンに、1800年代に開校した総合大学で、学科が250くらいあって、学生数はだいたい3万から5万くらいの間を行ったり来たりしています。ご存じのようにアメリカの大学は入るのは簡単ですが、出るのはたいへんです。最終的には、学生数は数分の1になります。なので、新学期、アメリカは9月が新学期ですが、そのときは学生数が5万人くらいになり、その内にだんだんドロップアウトして減っていき、アパートも空き家が目立ってくるようになります。
この大学を選んだいちばんの理由は、学費が安いことです。全米で下から何番目か、という安さでした。ちなみに当時の1学期の授業料は650ドル、学費の高い大学に比べるとタダみたいなものです。この学費なら多少は親孝行できる、ということで、英語検定をいろいろ受けて、それで入学することができました。
ウエストヴァージニアはアパラチア山脈の内側にありますが、その西にはケンタッキー州、南にはヴァージニア州、ジョージア州があって、実はもう南部が間近なのです。町はずれに行くとKKK、クークラックスクランがいます。白人至上主義の人々が三角帽をかぶって、ビリー・ホリデイが『奇妙な果実』(奇妙な果実とは、リンチで虐殺され、木に吊り下げられた黒人の死体のこと)で歌ったような、黒人の迫害をやっている。ところがモーガンタウンにある大学内では、そこだけはリベラルな、インテレクチュアルな雰囲気があります。キャンパス内にいる限りは守られている。で、自由にいろいろな活動ができるわけです。でも、一歩キャンパスを出ると危ない、という状況の中にいました。
大学には有名なウッドバーンサークル(セントラルパークのなどの造園で知られるアメリカのランドスケープ・アーキテクト=フレデリック・ロー・オルムステッドが手がけた施設)という一角があって、サークルの周りには古い建物が並んでおり、そこに僕が専攻した言語学科のある外国語学部も入っていました。
これは、僕の人生の中で重要なカギになるのですが、大学にはクリエーティブ・アートセンターという名前の建物があり、ここには音楽と演劇と美術といった芸術の学部が入っています。この中にはコンサートシアターをはじめ、いろいろなシアターがあり、有名なアーティストがジャズやクラシックなどのコンサートをやるし、オペラシアターもある。小さなリサイタルホールも何個もあります。音楽だけでなく、演劇のシアターもあり、練習室もそろっています。美術を専攻する学生がずっと籠って絵を描いている部屋もあります。
ここにはピアノの練習ができる防音のスタジオが50室以上、100室近くあり、誰もほとんど使っていない。規則があっても運用はいい加減なものでしたので、勝手に使っても文句を言われないわけです。僕はこの学部に属していませんが、中をウロウロしていても止める人が誰もいないのをいいことに、練習室に行ってピアノを弾いていました。
大学はたいへん広大で、言語学科のある建物からクリエーティブ・アートセンターまで、ボーイングとNASAが開発した無人モノレールに乗って15分くらいかけてやって来ていました。
僕にはお金が全然ありません。クリエーティブ・アートセンターの練習室は、基本的には夜11時くらいには出なければいけないのですが、その時間を過ぎても退出するように言われないので、空き時間があると、どこに出かけることもなく、ずっとここで練習していました。
その頃の僕の練習方法はというと、アメリカには当時FMラジオ局がたくさんあり、ちょっとダイヤルに触れただけでチャンネルが変わってしまうほどでした。その中にナショナルラジオという局があって、ジャズをずっと流していました。アメリカに行く前に秋葉原で買ったラジカセに、寝ている間にその局から流れるジャズを録音しておき、次の日にそれを再生し、このフレーズ、この曲を真似したいというものを選んで編集し、それを練習室で弾いていました。いまのように練習法を教えてくれる教則本もありませんし、誰からも教わっていない。何が練習なのか、それすらもまったく分かっていないような状態でした。
防音設備のある練習室とはいっても、弾いているうちに少し音が漏れることがあります。それを耳にした、通りすがりの学生や、たまたまそこに居合わせた人が、部屋をノックすることがありました。その中の何人かが、「いま音が聴こえてきたが、お前、ジャズやるのか」と声をかけてきました。「僕は音楽の学生ではありませんが、いまここでちょっと練習をしています」と答えました。あるとき、ひとりが「キャンパス内でデキシーランドジャズをやる仕事があるから、やらないか」と誘ってきました。そんなことが何回かあり、それが次第に仕事につながっていきました。キャンパスでやるようになったことがまずはじめで、そのうちに学生が集まる喫茶店とか、田舎の町で演奏することになっていったのです。

ジャズに明け暮れた、
貧しい、しかし楽しい日々。

アメリカを代表する白人ギタリスト、パット・メセニーがクリエーティブ・アートセンターのシアターではなく、学生食堂の横にあるホールのような場所でコンサートをやったことがあります。キーボードはパットの片腕ともいわれるライル・メイズでした。彼らがバンドデビューしてすぐのいちばん勢いがあった頃です。その演奏を聴き、生きた音楽、生きたジャズにじかに触れることで、迫力から何から全然違うことを実感しました。
クルマを使わないと移動だけでなく、生活自体が不可能なので、クルマを足にしていましたが、学生が買うような安い中古車の場合、クルマはどんどん壊れていきます。最初はエンジンがおかしい、次はトランスミッションがダメだということになり、ここに100ドル、ここに300ドルと修理しているうちに、仕送りのお金が無くなって、次の仕送りが届く最後の数か月はパンとジャムだけで暮らしているような状態になりました。やることがないので、学校の授業に行って、空いている時間は練習室でピアノを弾いていました。18歳から数年、すっとそういう生活を送っていました。ときどき練習室のドアを誰かがノックして、演奏の仕事があるけどやらないかと誘われたら、25~30ドル、日本円で2,000~3,000円のギャラをもらって、それで何か食べ物を買いに行くという生活をずっと続けていていたのです。
ピッツバーグやワシントンDCという町に行くと、ジャケットの端を切り取った安売りレコード、カットアウトレコードと呼ぶのですが、それが大量に販売されており、15ドル、20ドルしたものが1ドル99セント、2ドル99セント、中には99セントになっているものもありました。オスカー・ピーターソン、セロニアス・モンク、ケニー・バロンといった名だたるジャズピアニストのレコードがこれでもかというほど山積みになっていました。定価では手が届きませんが、この値段なら僕でも買えます。ピッツバーグやワシントンDCに行くたびに、買えるだけ買って家でテープに録音し、クリエーティブ・アートセンターに持ち込んで弾いていました。どうしたらあのように演奏できるのか、暗中模索の日々をずっと続けていていました。これを独学というのでしょうが、そうした練習を続けていました。
ワシントンDCに、ワンステップダウンというたいへん有名なジャズの老舗があります。ニューヨークでいうとビレッジバンガードくらい有名な場所で、チコ・フリーマン、アーサー・ブライス、ウォレス・ルーニー、スティーブ・ウィルソン、ゲイリー・トーマス)など、あらゆるレジェンドたちがここでプレイをしたことがあります。さきほど、僕が練習室でピアノを弾いていて仕事に誘われたとお話ししましたが、ウエストヴァージニア州にジャズができる東洋人がいるらしいと噂になって、そのうちに州内で声をかけられるようになり、次第に州外、メリーランド州とか、ヴァージニア州とか、ワシントンDCでプレイするようになっていきました。そしてあるとき、ワンステップダウンに出演することができるようになりました。
残念ながらワンステップダウンは、いまはもうありません。ここで僕はずいぶん鍛えてもらいました。素晴らしいプレイヤーたちのパフォーマンスを聴き、ときには共演するという経験が、実地の訓練だったのです。

ジャズのプロフェッサー、
ネイサン・デイビスの導き。

ネイサン・デイビスというアメリカのジャズミュージシャンであり、教育者でもある人がいます。彼はピッツバーグ大学の名誉教授です。アメリカでは、かつてジャズは一般的に認められていなかった芸術、音楽なのですが、それをなんとか大学で学べるレベルにしようとトライした人のひとりです。ネイサン・デイビスとデイブ・ブルーベック、ドナルド・バード、この3人が最も重要な人物で、3人が尽力したおかげでアメリカの大学に学術的な対象としてジャズが加えられるようになりました。
あるとき、ピッツバーグ大学にネイサン・デイビスがいるという情報を手に入れました。僕が住んでいたモーガンタウンから北へ、1時間半くらいクルマを飛ばして行くとペンシルバニア州のピッツバーグに着きます。
それまで僕は、いわゆる耳コピをしていました。カセットでいろいろなラジオやレコードを聴いたり、コンサートに行ったりして、そのプレイを自分なりに分析して、何のメソッドもなくそれを演奏しているという状態でした。その中で、ネイサン・デイビスという存在を知ったのです。
ピッツバーグはジョージ・ベンソン、ヴィブラフォンのミルト・ジャクソン、アマド・ジャマルなどを輩出した町ですが、彼らはすでに名を成してニューヨークなどで活躍していました。ローカル・ミュージシャンもいることはいますが、やはりネイサンがいちばん重要な人物です。
どうせ誰かに何かアドバイスしてもらうのならいちばんの人に頼むのがいいと思い、ある日、僕はピッツバーグ大学に行きました。音楽学部のネイサンのオフィスに向かい、ドアをノックしましたが、誰も出て来ない。その頃は、メールもファックスも、もちろん携帯もない時代なので、メモに僕はクリヤマコトという者でジャズをやっています、という自己紹介とモーガンタウンの僕の電話番号を書いてドアの下から入れておきました。どうせ連絡もないだろうと思っていましたが、ある日、電話があったのです。「僕はサックスだからピアノは教えられないけれど、ジャズがなんであるか、大事なものは教えられるかもしれないから、自分の家に来なさい、そうしたらレッスンをやってあげよう」ということでした。それも格安なレッスン料で。
ネイサンの家に行くと、ピアニストのトミー・フラナガンが実際に使っていた音符とか、それも出版されているものではなく、手書きのものとか、いろいろな人の原譜とか、そういうものがあって、その中からトミー・フラナガンの譜面を選んで「俺はサックスだけど、こういうフレーズはどうだ」とネイサン流に演奏してみました。すると、それまで僕が弾いていたフレーズとは美しさがまったく違うわけです。コードをそのまま拾って演奏しているのに比べ、響きというか、音楽性が全然違う。で、この弾き方を、それぞれキーを変えて、ピアノには12のキーあるのですが、どのキーでも弾けるように練習しなさいと言われました。ここからは、家でやって来い、と課題を出されたので、クリエーティブ・アートセンターに持ち帰り、練習してみると、いままでとはまったく違う。ああ、こうやるのか、と思いました。
細かいことではありませんが、「何かかっこいいと思ったフレーズをでたらめに弾くのではなく、システムに則して弾きなさい。キーだけでなく、コードも、美を追求した、つじつまの合うものを弾いて、それをもっと高いレベルの音楽に持っていければいいのだ」とも言われました。練習室に戻ってそれをやると、それまで自分が弾いていたのとはまったく別物になるのです。それが楽しくてしょうがないので、よしどんどんやるぞ、ということで、やりはじめて、今日に至ります。
ネイサンの教えを受け、僕は分かった気がしました。ネイサンの家はピッツバーグより遠く、僕が住んでいるところから2時間半くらいかかります。それで、もういいやと思って、3回、いや2回くらいレッスンを受けたら行かなくなりました。それから、ネイサンとはしばらく会いませんでした。

いつの間にか、
地元で最も忙しい演奏家に。

クリエーティブ・アートセンターの中にジャズピアノができる東洋人がいるということで、音楽学部の人間ではないけれど、あいつを使おうということになり、カレッジビッグバンドとかいろいろなバンドに紛れ込み、プレイをしていました。後期(アメリカの大学は2期制)になると、大学の教授が僕にジャズのことを聞きに来るということもありました。カレッジビッグバンドだけでなく、ワシントンDC、ピッツバーグでもいろいろ演奏するようになり、なぜか地元でいちばん忙しいミュージシャンになっていました。
ヴァージニア州のニューポートニュースやノーフォーク、ニューハンプシャー州のポーツマス、ノースカロライナ州でも演奏をしました。ジェームス・ジナスという、いまではとても有名になったベーシストがいます。彼はヴァージニア・コモンウェルス大学の出身で、僕と一緒にドサ回りをやった仲間です。彼と僕は、いつも相部屋でした。ジェームス・ジナスは、ハービー・ハンコックやチック・コリアともプレイしているし、ジャズの重要な現場にはいつも彼がいると言って過言ではないでしょう。実は、僕と一緒にドサ回りをやっている頃に、彼はエレキベースをはじめたのです。朝、僕がまだ隣のベッドで寝ているとき、いつも彼はアンプにつながずに小さな音でベースの練習をしていました。それでもベースを弾くバチバチという音がするので、その音で毎朝起こされていました。
チャック・マンジョーネとプレイしたこともあります。トランペットがチャック、テナーサックスはゲイリー・トーマスでした。チャックは、僕が加わったグループとは別に自分のバンドを持っていたのですが、この日の演奏が気に入って、一緒にツアーをしたいということになり、アメリカの東海岸をチャックとともに演奏旅行をして回りました。チャック・マンジョーネは、ご存じのように『フィール・ソー・グッド』という曲でどれくらいのレコードを売り上げたのかわからないほどのヒットを飛ばした、グラミー賞を受賞しているアーティストです。彼とのツアーは、とても面白い経験でした。チャックは、まず寝ない。ライブが終わると、打ち上げをやって、そのあとでボーリング場を貸し切ってスタッフも含めたみんなでボーリングに興じたりする。夜遅くまでボーリングをやって、朝起きて移動して、次の目的地に着いたら、湖で釣り。その釣り船でちょっとうたた寝をするくらいで、また次のライブをするというツアーを続けました大変勉強になった時期でしたが、これも大学の練習室でドアをノックされてプレイするというスタイルの延長線上にありました。
そうこうするうちに、僕のファーストアルバムを出そうということになりました。この最初の1枚の前に、ゼロ枚目として『オールウェイズ・ユア・フレンド』というアルバムを出していて、これは僕が曲を書き、多重録音をして、地元のミュージシャンも使って制作したアルバムです。アメリカのレーベルから出ています。
ファーストアルバムは、日本のキングレコードから出すことになりました。この頃、ワシントンDCとメリーランド州のボルチモアではちょっとした顔になっていたので、ゲイリー・トーマス、チック・コリアとも一緒にやっている実力派サックス奏者のスティーブ・ウィルソン、ドラムはソニー・ロリンズともプレイしているビリー・ドラモンドといったヴァージニアを含めてその辺りで活躍しているミュージシャンを集めてデビューアルバムを制作しました。ビリー・ドラモンドは僕が書いた曲について、難しいと笑いながら文句を言っていました。
僕は日本では1回も演奏をしていないし、活動もしていないので、誰も僕のことを知らない。だから、クリヤマコトという名前では売れないだろうとキングレコードの担当者は判断したらしく、「あんたいまどこで活動しているの」と聞かれ、「ボルチモア」と答えると、では『ボルチモア・シンジケート』にしようと、架空のユニット名をつけられてしまいました。

まったく無名の黒人にも、
強い影響を受けて。

自分のボログルマでツアーをしている日々が続きましたが、本当に久しぶりにネイサン・デイビスが声をかけてくれました。僕の名前が、アメリカ東北部一帯に広まって来たので、そんなに活動をしているのなら一度弾きに来い、ということになり、2、3回レッスンに行ってやめてしまった僕に、自分のバンドに入れと言ってくれたのです。それで、僕は住まいをウエストヴァージニアからピッツバーグに移すことにしました。
それと前後して、キャベン・フライソンという黒人の大男で、無名のベーシストと知り合いました。僕の精神的な面での基礎は、彼からできていると言えます。彼は炭鉱夫で、事故に遭って働けない状態になってレイオフされました。ウエストヴァージニアには炭鉱が数多くあって、そこで掘り出された石炭がピッツバーグに運ばれ、ノーフォークの港から運ばれていました。この辺りは、本当に貧しいエリアなのです。彼の父親は早くに亡くなっていたのですが、あるとき彼の家の物置を片付けていると父親の写真を見つけました。しかし、よく見るとそれはジョン・コルトレーンのレコードアルバム写真でした。彼の父親は、ジョン・コルトレーンにとてもよく似ていたのです。そこで、彼はこういう音楽をやってみようと思い、ジャズをはじめたそうです。
彼はエレキベースもアコースティックベースもやるのですが、まるで譜面は読めないばかりか、教育も何もありません。まるで職がなく、生活保護を受けていました。生活保護者には、フードチケット、買い物券のようなものが国から支給されるのですが、そのチケットには4ドルとか5ドルとか書いてあり、それをスーパーに持っていくと食品が買えます。そのフードチケットを、彼から僕はもらっていた。「お前、パンとジャムで困っているんだろう。だったら、俺のフードチケットをやるから買い物に行こう」と言われたのです。
あるとき、彼の家の電気やガスも止められることになった。で、時間だけはたくさんあるので、止めに来た人たちを説得しようとしました。いかに自分の生活がたいへんかを説明していると、突然、撃たれたのです。まさにゴスペル、ブルースそのものです。そんなどん底に片足を突っ込んだような生活をしている人に、僕は保護されていたことになります。
マフィアのボスの孫とも知り合いました。彼はサックスの天才でしたが、定住はしておらず、つねにストリートで演奏しながら全米を回っていました。彼は、ヒッピーです。それで、僕もヒッピーのコミューンを体験しました。グレイトフル・デッドというヒッピーがやっているバンドがあるのですが、僕はグレイトフル・デッドのコピーバンドに入っていて、キーボードとサックスを担当していました。このバンドで、ヒッピーのコミューンを回るツアーをやりました。
レッドネックと呼ばれる人たちがいるのをご存じでしょうか。アパラチア山脈周辺に暮らす貧困白人層の蔑称で、屋外での肉体労働で首が日焼けしていることから、そう呼ばれます。多くは、人種差別主義者です。そうした人たちがいるエリアであってもヒッピーのコミューンはリベラルなのです。だから僕は、ここにいれば守られていると感じられました。クルマがぬかるみにはまって動けないときには、大勢が助けに来てくれました。
いずれにしろ、ネイサン・デイビスとキャベン・フライソンが僕の精神面のメンター(指導者、助言者)でした。キャベン・フライソンという無名の黒人と、ネイサン・デイビスという『最も成功した黒人の紳士録』にも載っている人物、超無名と超有名な2人が現在の僕の基礎をつくってくれました。

時代の変わり目を感じて、
日本への帰国を決意。

平成になったとき、一度日本に帰って活動しようと思い立ちました。その理由は、天皇がお亡くなりになったこと、ベルリンの壁が崩壊したこと、そしてソ連がなくなったこと、音を立てて時代が変わっていったことを実感したからです。
それまでは、毎日が楽しくてしょうがないという状態でした。いろいろなところからオファーがありました。チャック・マンジョーネから連絡が来たり、トム・ブラウンといった有名な人ばかりから仕事が来たりするので、面白くて仕方がないわけです。来週やる仕事のレコードを買って、勉強してさまざまな人と次々に演奏して、これはこれで実に楽しい。ですが、このままでは浦島太郎になってしまうのではないかという思いもあり、一度日本に戻った方がいいのではと感じました。その帰り方も、ある日突然というものでした。ウエストヴァージニアの辺りでも、ピッツバーグの辺りでも、あいつはどうなったのだという話になったそうです。
帰国する前、僕はネイサン・デイビスのバンドに入っていたのですが、彼が勤める大学に講師として僕を招いてくれました。仕事はありましたが、暮らしは貧しいままで、このままでは意に反して日本に帰らなければなりません。ネイサンの元で講師をやればサラリーは支払われるし、住むところも融通を利かせてくれるということで、彼の部下になってピッツバーグ大学の講師をちょっとやっていました。しかし、大学の講義も1回やると2回目からは同じことの繰り返しなので、クリエーティブではない。それで、いきなりイヤになって、2年くらいで、ある日、突然辞めました。
それで、日本に帰ってきたわけです。日本でもトランペット奏者の日野皓正グループに参加してツアーを行ったり、ドラムスのマーヴィン・スミッティ・スミス、ベースのジェームス・ジナス、サックスのゲイリー・トーマスなど一緒にアルバムを制作したり、いろいろ活動をしていました。

ユニセフのコンサートが、
ヨーロッパへの足がかりに。

そんなある日、ネイサン・デイビスからユニセフの仕事があるということで、いきなり10年ぶりくらいに電話がありました。
ユニセフのインターナショナルデイというイベントが毎年10月の初旬にあって、「世界平和を、音楽を通じて考えていこう」というのが主旨です。ネイサン・デイビスはピッツバーグ大学の教授で、世界からあらゆる評価を受けています。そのネイサンに対し、全世界の観客に向けて、全世界から集めたミュージシャンによるコンサートを行ってほしいという要請があり、それに沿ったイベントが2004年にパリで行われました。
そうそうたるレジェンドが集結しました。トランペットは、名手として知られるジョン・ファディス。サックスのジョニー・グリフィンはこのあとすぐに亡くなりましたが、ジョン・コルトレーンとも一緒にやっている人です。ベースはエイブラハム・ラボリエル、日本では渡辺貞夫さんとよく演奏している技巧派です。フランス人のジャズピアニスト、マーシャル・ソラールはご存知ですか。この人はお化けです。ピアノのお化け。一体なにをやっているのか分からないくらい上手い。彼のジャズのCDはいっぱい発売されています。LA Fourという白人ジャズバンドがありますが、そこにも加わっています。でも、残念ながら日本ではあまり知られていません。同じくピアノのビリー・テイラー。アンバサダー・オブ・ジャズといわれる人で、ジャズの教育者であり、ラジオ番組を生きている間ずっと持っていてジャズの普及に貢献しました。彼がどれだけジャズを世間に知らしめたか、その功績は計り知れません。このとき80歳を越えており、このあとすぐに亡くなりました。ドラムがビリー・コブハムで、名手中の名手です。彼らが奏でる音楽はとてつもなく分厚いものでした。僕は、世界のミュージシャンが集まるイベントがあるから、アジアを代表して来いとネイサンに言われて参加したわけです。このときはじめてヨーロッパ、パリで演奏しました。
このコンサートのあと、ヨーロッパの関係者から、次はクリヤマコト個人で来てくださいと言われました。その後、ヨーロッパに出かけ、いろいろな人と出会って、アメリカのときと同じように少しずつ輪が広がってきて、2000年代は次第にヨーロッパを中心に演奏するようになっていきました。

出会いがあり、別れがあり、
そしていまがある。

ネイサンがユネスコのイベントに呼んでくれたおかげでヨーロッパとのつながりができ、いま僕がベースとしているヨーロッパで活動するようになりました。
本当に細い糸と糸がつながるような縁で、現在があります。
結局、最終的にネイサンにさまざまなチャンスを与えられたのかなと思います。ちなみに、ネイサンは去年亡くなりました。無名のスピリチュアルメンター、キャベン・フライソンも、無名のまま去年死去しました。
スピークロウというジャズのスタンダードがあります。キャベン・フライソンとはじめて会ったときに演奏したのですが、最後に会ったときも何をやろうかとなったとき、彼はスピークロウと言いました。多分、彼はスピークロウとそのほか数曲しか知らなかったのではないかと思います。
ネイサンとキャベンの2人に僕は育てられたわけですが、ほかにもロン・カーターとかケニー・ブラウンとかの演奏をすぐ目の前で聴いて、僕はジャズというものの神髄に触れました。ネイサンやキャベンだけでなく、いろいろな人、いろいろな演奏と出会い、それに接して自分の中でひらめき、気づきがあって、それからはもう理屈ではなく、そうした気づきやひらめきを、演奏活動に取り入れてきました。
日本に帰って来て、僕の2枚目、僕自身の名前では最初のX-BAR TRIOというアルバムを出しました。さきほどのジェームス・ジナスとドラムスの大坂昌彦を迎えて、自分の名前でデビューを飾りました。そのあとX-BASED MUSICなど、Xのつくアルバムをゲイリー・トーマス、マーヴィン・スミッティ・スミスといった旧友と一緒につくりました。X-BAR TRIOがとても評判がよかったのでX-BAR TRIO2も制作しました。
ある日、僕は恩師のネイサン・デイビスを招いて日本ツアーを行い、Mercy, Mercy, Mercyというアルバムをつくりました。ほかにも、ハービン・ハンコックの『ヘッドハンターズ』でサックスを吹いていたベニー・モウピン、ジョン・B・ウイリアムスと一緒にバンドをつくり、主に日本でツアーをやって、CDも出しました。ドラムはセシル・モンローという優秀なジャズメンでしたが、数年前に水難事故で無くなりました。自分の息子を助けに行ったら、自分が溺れてしまったということです。

世界をステージにして、
これからも自然体でプレイを。

僕は、ずっと自分が黒人だと思っていました。鏡で自分を見てワッとなるくらいです。黒人とばかりつき合っているし、言葉の問題もないので、自分が東洋人だと感じることがほとんどないのです。黒人ではないと気づかされたときなど、たまにショックを受けることがありました。
日本に帰ってくると、映画音楽も手がけるようになりました。ユネスコのイベント時代と前後するのですが、僕はまったく独学でジャズをやっていましたが、そんな僕にあるとき、オーケストラが書けるかと言われ、思わず書けますと答えてしまいました。それから、勉強しました、これも独学で。ワルシャワで、僕が書いた映画音楽を録音しました。その作品が、『仁太坊-津軽三味線始祖外聞』です。三味線は上妻宏光さんがやっていて、聴きごたえのあるサウンドトラックになっています。
この映画が公開されたのと同じ2004年の東京ジャズフェスティバルでは、ハービー・ハンコックと同じステージに上がりました。デビューしたばかりの上原ひろみさんやロックバンドのTOTOも出演しています。その後、平井堅のアルバムプロデュースや渡辺美里のアレンジなども手がけたりもしました。イギリスで村上春樹さんの作品が爆発的なブームとなったので、その朗読と僕のピアノのセットで、イギリスだけでなくケルンをはじめ、いろいろな場所で上演しました。
2006年には、文化庁、NHKエンタープライズからの指名を受け、日豪交流年を記念して日本人5人、オーストラリア人5人が共存するグループをつくり、それぞれの国のフィスティバルで演奏するという活動を行いました。シドニーではオペラハウスが舞台でした。僕がパリで率いているチームを日本に呼ぶという活動も行い、東京・丸の内のコットンクラブで演奏しました。
パリはもちろん、ローマ、ケルン、モロッコのタンジェなど、さまざまな国のさまざまな都市で、イタリア人、フランス人など、さまざまな国籍のミュージシャンと演奏しました。パリのモンマルトルでライブをやっているジプシーが来日したときも、僕がゲストで参加しています。台湾の台中やエジプトのカイロでのジャズフェスティバルでも演奏しました。ラテンジャズユニット、RHYTHMATRIXの活動も2000年代からスタートさせました。
ヨーロッパで活動するようになったのち、僕は拠点をロンドンに移すのですが、そのコアになっているのがジャズ・アット・ピザ・エクスプレスというクラブです。ここが、いまの自分にとってたいへん大事な場所で、現在の僕が実験的にやっていることは全部ジャズ・アット・ピザ・エクスプレスで初演しています。近くにはロニー・スコッツというビレッジバンガードやブルーノートに匹敵するイギリスで最も重要なジャズクラブがるのですが、ジャズ・アット・ピザ・エクスプレスの方は小さいけれどとてもクリエーティブな気分になれる、ものすごくいい会場です。
ハンガリーのブダペストにあるリスト音楽院では、セミナーも実施しています。ハンガリーでは、2台ピアノのコラボレーションプロジェクトも2000年代からはじめました。田舎の町でピアノがないときは、電子キーボードでもやりました。フランスのジャズピアニスト、ミッシェル・ルグランはたびたび日本公演を行っている親日家ですが、僕はパリでも東京でも一緒のステージに上がりました。彼が亡くなる2年前にもブルーノート東京で会いましたが、そのときは老人ホームにいるような雰囲気だったことを覚えています。
僕が、いままでやってきた活動はほとんど自然体です。自然体で人と仲良く交流しているというか、遊びでやっているうちにだんだんこういう風になってきたしまった、という感じです。僕としては、こうした自然体のまま、生涯アマチュアのつもりでやっていきます。

2020.05.05
Sound States : vol.62「永田ジョージと仲間たち」配信します。
(配信予定:2020.05.05 21時00分)
2020.04.04
Sound States : vol.61「SIO Birthday Live 2019」配信します。
(配信予定:2020.04.04 21時00分)
2019.08.08
Sound States : vol.60「クリヤ・マコト「RHYTHMATRIX」feat.SHIHO」配信します。
(配信予定:2019.08.08 21時00分)
2019.06.06
Sound States : vol.59「SOLO-DUO」配信します。
(配信予定:2019.06.06 21時00分)
2019.03.03
Sound States : vol.58「SIO」配信します。
(配信予定:2019.03.03 21時00分)
2019.01.11
Sound States : vol.57「7th Anniversary」を配信します。
(配信予定:2019.01.11 21時00分)
2018.10.10
Sound States : vol.56「Daisuke Ito」を配信します。
(配信予定:2018.10.10 21時00分)
2018.8.8
Sound States Vol.55「Yammy* Performance 2018 ~10th Anniversary 2008-2018~」を配信します。
(配信予定:2018.8.8 21時00分)

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2018.7.7
Sound States Vol.54「古澤剛 」を配信します。
(配信予定:2018.7.7 21時00分)
2018.3.3
Sound States Vol.53「taca Quarante Release Tour Final」を配信します。
(配信予定:2018.3.3 21時00分)
2017.12.12
Sound States Vol.52「古澤 剛 Pure Acoustic」を配信します。
(配信予定:2017.12.12 21時00分)
2017.8.20
神宮外苑花火大会の模様を配信します。
(配信予定19:30~20:30)
2017.8.8
Sound States Vol.51「Geila Zilkha」を配信します。
(配信予定:2017.8.8 21時00分)
2015.11.04
Sound States vol.45「4th Anniversary Part.2」を配信します。
(配信予定:2015.12.12 21時00分)
2015.11.04
Sound States vol.44「4th Anniversary Part.1」を配信します。
(配信予定:2015.11.11 21時00分)
2014.06.08
Sound States vol.35「永田ジョージ」を配信します。(配信予定:2014.07.07 21時00分)
2014.05.08
Sound States vol.33「マナカナミチル」を配信します。(配信予定:2014.06.06 21時00分)
2014.04.08
Sound States vol.32「中嶋ユキノ」を配信します。(配信予定:2014.05.05 21時00分)
2014.03.20
Sound States vol.31「Makoto Kuriya」を配信します。(配信予定:2014.04.04 21時00分)
2014.02.20
Sound States vol.30「Junko Makiyama」を配信します。(配信予定:2014.03.03 21時00分)
2014.01.20
Sound States vol.29 「Shintaro Kudo」を配信します。(配信予定:2014.02.02 21時00分)
2013.12.20
Sound States vol.28 「Rin Nakashima」を配信します。(配信予定:2014.01.11 21時00分)
2013.11.20
「Yammy Stream × Sound States 「Yammy Christmas Show」を配信します。(配信予定:2013.12.12 20時00分)
2013.11.20
Sound States vol.27「Sound States 2nd Anniversary 2013 10/20 1st Set」を配信します。(配信予定:2013.12.11 21時00分)
2013.10.20
Sound States vol.26「Sound States 2nd Anniversary 2013 10/19 2nd Set」を配信します。(配信予定:2013.11.12 21時00分)
2013.10.20
Sound States vol.26「Sound States 2nd Anniversary 2013 10/19 1st Set」を配信します。(配信予定:2013.11.11 21時00分)
2013.10.20
Sound States vol.25「Sound States 2nd Anniversary」を配信します。(配信予定:2013.10.10 21時00分)
2013.08.20
Sound States vol.24 「Yammy with SHOGUN」を配信します。(配信予定:2013.09.09 21時00分)
2013.08.20
「EVERGREEN Summer 2013 レラーブル(taca+鳥越啓介)」を配信します。(配信予定:2013.09.01 19時00分)
2013.08.10
「神宮外苑花火大会 with ライブ in ココデシカ」を配信します。(配信予定:2013.08.17 18時05分)
2013.08.01
「Sound States vol.23 Piece of Cake」を配信します。(配信予定:2013.08.08 21時)
2013.06.27
「Sound States vol.22 Reminiscent Song」(REM&SONGiL)」を配信します。(配信予定:2013.07.07 21時)
2013.05.20
「Sound States vol.21 Kin Taii 金 大偉」を配信します。(配信予定:2013.06.06 21時)
2013.05.02
「Sound States vol.20 HIDE-HIDE」を配信します。(配信予定:2013.05.05 21時)
2013.03.18
「Sound States vol.19 L'erable/レラーブル(taca+鳥越啓介)」を配信します。(配信予定:2013.04.04 19時30分)
2013.03.18
「Sound States Special 2013.03.21 Sawan Joshi - Sitar Live "Nepel Beat"」を配信します。(配信予定:2013.3.21 21時)
2013.02.15
「Sound States vol.18 Ying-ying Shih」を配信します。(配信予定:2013.03.03 21時)
2013.01.28
「Sound States vol.17 告井 延隆」を配信します。(配信予定:2013.02.02 21時)
2013.01.23
「戦略経営デザイン人材育成講座<STRAMD>」を配信します。
(配信予定日:2013.01.26)
2013.01.08
「Sound States vol.16 Nobuyuki Mizuoka」を配信します。(配信予定:2013.01.11 21時)
2012.12.10
「Sound States vol.15 古澤 剛」を配信します。(配信予定:2012.12.12 21時)
2012.10.10
「Sound States vol.14 SSS ANNIV. 104 Part 2」を配信します。(配信予定:2012.11.11 21時)
2012.10.01
「Sound States vol.13 SSS ANNIV. 104 Part 1」を配信します。(配信予定:2012.10.10 21時)
2012.09.06
「Sound States vol.12 Afternoon Tree」を配信します。(配信予定:2012.09.09 21時)
2012.08.03
「Sound States vol.11 The YAM Project」を配信します。(配信予定:2012.08.08 21時)
2012.06.25
「Sound States vol.10 HIDE-HIDE」を配信します。(配信予定:2012.07.07 21時)
2012.05.24
「Sound States vol.9 タダシンヤ」を配信します。(配信予定:2012.06.06 21時)
2012.04.12
「Sound States vol.8 fulare_pad」を配信します。(配信予定:2012.05.05 21時)
2012.03.31
「Sound States vol.7 宮浦 清」を配信します。(配信予定日:2012.04.04)
2012.02.21
「Sound States vol.6 Sali」を配信します。(配信予定日:2012.03.03)
2012.01.13
「戦略経営デザイン人材育成講座<STRAMD>3」を配信します。
(配信予定日:2012.01.14)
2012.01.06
株式会社ビジネスバンク主催「起ち上がれ!東日本~復興支援チャリティセミナー」を
配信します。
(配信予定日:2012.01.17より毎週火曜日21:00~計4回放送)
2011.11.27
ビジネス界のオスカーとも言われる「Stevie Awards」を配信します。
(配信予定日:2011.12.01)
2011.10.31
「Sound States vol.5 SUITE VOICE (女性4名ヴォーカルグループ)」を配信します。
(配信予定日:2012.02.02)
2011.10.31
「Sound States vol.4 ソンイル(韓国バイオリニスト)」を配信します。
(配信予定日:2012.01.11)
2011.10.24
「Creator's Cafe」を配信します。(配信予定日:2011.10.24)
2011.09.29
「Sound States vol.3 森大造」を配信します。(配信予定日:2011.12.12)
2011.09.29
「Sound States vol.2 武川アイ」を配信します。(配信予定日:2011.12.12)
2011.09.29
「Sound States vol.1 延原達治 THE PRIVATES」を配信します。(配信予定日:2011.10.10)
2011.09.29
アジア最大級の旅の祭典「JATA旅博」を配信します。(配信予定日:2011.10.01)
本配信はUSTREAMサイト上で行います。
2011.09.29
Coco-de-sica.TV WEB サイトをリリースしました。

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