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人をハッピーにするのが、僕の仕事。
ジャズベーシスト:納 浩一(おさむ こういち)
アジアを中心に活躍する実力派のアーティストを、ネット配信を通して
紹介する音楽番組、Coco-de-sica TVの『SOUND STATE』。
その『SOUND STATE』のスピンオフ企画として
『SOUND STATE CAFÉ』が、新たに誕生しました。
アーティストをはじめ、音楽界で存在感を発揮するプロフェッショナルたちが、自分自身の言葉で、自分自身の音楽の原点、
作品や演奏の背後にあるものなどを語ります。
このサイトをご覧になった方々が、音楽というひとつの道を追求しつづける
プロフェッショナルの言葉の中から、生き方や仕事などの指針となる
“何か”を感じ取っていただけたら、これに勝るよろこびはありません。
第1回のゲストは、日本を代表するジャズベーシスト、納浩一さんです。
大阪の平凡な野球少年が、
バットを“ベース”に持ち替えて。
僕は、1960年に大阪の道修町(どしょうまち)という、くすり問屋が軒を連ねる街で生まれました。昔は、武田薬品や塩野義製薬なども、ここに本社がありました。この道修町に店を構える商人の子供でしたが、小学生のころはごく普通の、どこにでもいるような野球少年でした。姉がピアノを習っていて、僕もピアノ教室に通わされたのですが、親にはピアノに行くと言って、実は友達と野球に興じていました。そのころは、もちろん音楽で身を立てようとは思ってもいません。いまはピアノ教室で先生をやっている姉も「なんでお前がプロになれたの?」と不思議がっています。
エレキベースをはじめたのは、中学2年生のとき。兄がブルーグラスなどのカントリー&ウエスタンやフォークのバンドをやっていて、家には姉のピアノだけでなく、ギターなどの楽器もたくさんありました。いつも音楽が溢れている家庭だったので、自然と音楽を聴くようになり、楽器を手に取るようになりました。
自分でいちばん最初にお金を出して買ったレコードはビートルズ。バンドを組んでビートルズをやろうと思ったからです。でも、ビートルズは歌が上手くないと、どうにもならない。周りに歌の上手い奴は誰もいません。そこで、ディープパープル、バッドカンパニーといった英国のハードロックバンドに目をつけました。ハードロックなら、大きな声で怒鳴るように歌って、大音量で楽器をかき鳴らせば、なんとかカタチになります。とくにハードロックにはエネルギー、勢いがありますから、若者にはぴったりの音楽だったと言えるかもしれません。
ベースを選んだのは、ただ単に下手だったからです。いちばん下手な奴がベースを担当するというのが、当時の風潮でした。そのころのバンド仲間には「お前が、いちばん才能がなかった」と言われます。中学3年からサッカーもはじめました。中学、高校は音楽とサッカーに明け暮れる毎日で、勉強はまったくほったらかしでした。
京都大学での失意が、
新たな決意のきっかけに。
大学は1年浪人して京都大学を目指しました。京都大学を選択した理由は、母が京大に合格したら新しいエレキベースを買ってくれると約束したからです。それならば、ということで1年間猛勉強しました。
もちろん、プロのミュージシャンになるのが難しいことはよく分かっていました。18、19歳くらいの若者で、絶対にプロになれると確信している人は誰もいません。プロになれるか、なれないか、その葛藤の中で、保険をかけるという意味で、大学を目指したわけです。
京大では機械工学科に入学しましたが、本当の志望は電子工学でした。卒業したらローランドやヤマハなどの音響機器メーカーに行って、研究開発に携わることで、音楽との関係性は維持したい、ミュージシャンにはなれなくても音楽の周辺で生きていきたい、という気持ちがあったからです。
しかし、電子工学は難関でした。ちょうどその年に共通一次試験、いまのセンター試験がはじまり、その共通一次を受けたのですが、調子が悪く、いい点数が取れなかった。そこで、機械工学科に目標を変更したのです。入学してすぐに行われた機械工学の学科紹介で、大きな建物の中に案内されました。そこでジェットエンジンのような巨大な火力発電用のタービンを見せられ、教授から機械工学ではこういう機械について研究したり、製作したりするのだ、と言われたのです。言われた瞬間に、これは自分がやりたいこととはまったく違うと悟りました。
即座に、音響機器メーカーに行くという人生の保険は解除し、本当にやりたいことは何かを自分に問いかけました。そして、すぐミュージシャンになろうと決めたのです。
しかし、ミュージシャンになれるほど楽器が上手いわけではありません。いまの僕が、当時の僕を見たら「止めておけ」と言いますね。このころはバンド活動も休止していましたし、ミュージシャンになるためにどうすればいいのかも、何も知りませんでした。ただただパッションだけがありました。
ミュージシャンを目指して、
バークリー音楽大学へ。
バークリー音楽大学はマサチューセッツ州のボストンにあり、ジャズに限らず商業音楽を専門的に教える学校です。バークリーを出た日本人ミュージシャンには、ジャズピアニストの穐吉敏子(あきよしとしこ)さんや小曽根真(おぞねまこと)さん、サックスプレイヤーの渡辺貞夫(わたなべさだお)さん、アメリカではキース・ジャレットをはじめ、いまレジェンドといわれるような人はほとんどバークリーを卒業しています。
クラシック音楽を教える学校は、アメリカにもニューヨークのジュリアード音楽院などがありますが、1984年ごろ、ジャズを専門的に教える学校で日本人が留学して価値のあるのは、バークリーくらいでした。アメリカの総合大学にはジャズを教える学科がありましたが、英語力が必要です。それに比べると、バークリーは敷居が低かった。そこで、僕は京都大学を卒業すると、バークリーに留学することにしたのです。
アメリカでは学期のことをセメスターといい、1年2セメスター制で、バークリーの1セメスターの授業料は1900ドル。入った直後にプラザ合意があって円高になり、1ドル150円くらいになりました。ですから、1セメスター30万円程度になったわけです。いまは1セメスター300万円くらいしますから、それに比べれば授業料はたいへん安かったのです。
バークリーに限らず、アメリカの大学はどこも入学するのは比較的簡単ですが、入ってからが厳しい。僕は、作曲編曲科に入ったのですが、宿題として2週間に1度は20人くらいで編成されるビックバンドの楽譜を提出しなければなりません。譜面を描いては音を出してみる、ということの繰り返しで、寝る暇もありませんでした。
授業は夜の6時に終わるのですが、学校は12時まで開放されていて、その時間、みんなセッションをします。それぞれがバンドを組んで練習するのです。少し上手いと分かると、学内で毎日やっているコンサートに呼ばれるようになる。宿題は山ほどあるのに、呼ばれると、とくにいいミュージシャンからの誘いの場合、それが他のミュージシャンにもつながるので、断るわけにはいきません。朝から夜中までずっと音楽をやっている、という生活が4年間つづきました。最高の時期でした。最高に楽しい時期でした。
いい先生、いい学校との出会いが、
気づかせてくれたこと。
京都大学のころはほとんど授業に出ない、ボンクラ学生でした。でも、バークリーでは学びたいことがはっきり見えていて、それに対してこんなことまで教えてくれるのか、というところまで提示してくれる。どんどん面白くなって、教えられたことをいくらでも吸収できました。いい大学とはレベルの高低ではなく、そこで何を提供してくれるのかが重要なのだと、バークリーで気づかされました。
もちろん、先生もすごくよかった。とくにアレンジのコースにはいい先生がいました。ハリウッドでミュージカルの譜面を朝から晩まで書きつづけてきたような叩き上げの人が、引退して来ている。その経験値はたいへんなもので、アメリカのショービジネスにおけるアレンジの極意みたいなものです。ニューヨークのビッグバンドの歴史のような先生もいました。
僕がバークリー行ったころは、日本にはポピュラー音楽をアカデミックに教えてくれる学校は、まったくありませんでした。ミュージシャンは、演奏の現場で暗中模索しながらやっているというような状況でした。その中で、才能やセンスのある人は、自分だけのノウハウを身につけていきましたが、プロはそれを他人に教えることはしません。僕のような音楽のバックグランドのない人間が、音楽のイロハから学べる学校はなかった。ですから、バークリーに行って本当によかったと思います。
学校選びについて言えば、行くだけで誰でも上手くなれる、誰でも向上できる、そんな「魔法の学校」はありません。自分にどれだけパッションがあるか、学びたいという情熱があるか、それを突き詰めると必ず何か見えてくるものがあると思います。この先生は違う、この学校は違うと感じたら、先生や学校を変えるべきではないでしょうか。自分に合った先生、学べる場所を探すのもひとつの勉強です。それは、自分の個性を探すことでもあります。
プロとしての第一歩は、
東京のジャズクラブから。
1978年にバークリーを卒業すると、日本に戻りました。故郷の大阪ではなく、東京でプロを目指すことにしたのです。でも、僕は東京のジャズシーンについて何も知らなかった。まったく知り合いもいないし、誰も僕のことを知らない。
僕らの場合、プレイすることで名前を覚えてもらう必要があります。そこで、新宿のピットインや青山のボディ&ソウルなど、いろいろな老舗のジャズクラブを訪ね、少しでも知っているミュージシャンがいればお願いして、とりあえず1曲弾かせてもらいました。プレイが気に入ってもらえれば、次のチャンスにつながります。そうこうする内に、徐々に徐々に名前が広がっていったわけです。
それでも3~4年は、くさらず、くじけず、といった感じの時期でした。自分として納得できるような場所や状況でプレイする機会には、なかなか恵まれません。ディズニーランドがある浦安のホテルでは、子供が走り回っているようなところで、誰も聴いていないだろうなと思いつつ、ピアニストと二人で演奏したこともありました。とにかく、食べていくことに必死で、ぜいたくは言っていられない。どんな仕事でも、とにかくこなしました。
ミュージシャンになろうと思ったときもそうなのですが、なんとかなるだろうという妙な自信はありました。気楽に、楽天的に考えて、きちんと仕事をしていれば、そのうち認めてもらえるだろうと思っていました。ミュージシャンは、実力の勝負。とくにジャズは、そこが面白いところです。いいプレイをしていれば、いい方向に回転していく、そう信じていました。
大きな転機になったのが、サックスプレイヤー・渡辺貞夫さんとの出会いです。1996年、僕が36歳のときでした。渡辺貞夫さんにレギュラーベーシストとして誘われ、それから12年間、一緒に活動しました。ちょうどその年、洗足学園音楽大学にジャズコースが日本ではじめてでき、講師に迎えられました。このふたつのできごとによって、仕事面も生活面も大きく変化しました。
あるアーティストの存在を、
成長のモチベーションとして。
これまで、渡辺貞夫さんをはじめ、さまざまなミュージシャンと知り合うことができましたが、その中でとくに印象深いのが、マーカス・ミラーというジャズベーシストです。マーカスは、僕より1歳上。17、18歳くらいからアメリカで活躍していて、ジャズだけでなく黒人系ソウルミュージックなどのポップスやロックといった、いろいろなジャンルのミュージシャンのサポートをしています。エリック・クラプトンとツアーもしていますが、彼のいちばん大きな仕事はジャズの歴史的レジェンド、マイルス・デイヴィスのプロデュースです。ある時期から以後、マイルスのほとんどアルバムは、彼がプロデュースしています。
実はバークリーに入学する前に、ニューヨークのライブハウスで彼の演奏を聴いたことがあります。そのときの演奏が、本当に素晴らしかった。当時、彼はポップスやソウルのスタジオミュージシャンをやっていて、シンガーのサポートは上手いのですが、ジャズはできないだろう、と思っていました。ところが、そのジャズがすごかった。日本で表面的に見ているのとは違って、アメリカのミュージシャンには深みがある。とくに黒人系ミュージシャンは、きちんと勉強して、その結果、いまの場所にいるのだと頭を殴られる思いがしました。
それ以来、マーカスに憧れていたというか、追いかけていた。なんとかこの人の尻尾でもつかみたいと思いつづけていました。はじめて彼を見たときは、はるか宇宙の向こうにいるような存在でしたが、去年の11月、僕がベースをやっている東京ブルーノートオーケストラのゲストとして彼が出演してくれたときは、本当に感動しました。まさか同じステージに立てるとは思ってもいなかったのに、そのステージで、2人でベース同士の掛け合い、バトルをやったのです。彼と本気でバトルができる、よくそんなところまで来られたな、という感慨がありました。
仕事も趣味、趣味も仕事。
それが、いまの僕の流儀。
僕は、音楽以外にもたくさん趣味を持っています。例えば、サッカーは1998年のフランスワールドカップ以降は、前回のロシアを除いて、すべて観戦に行きました。料理も大好きです。スキューバダイビングは54歳くらいからやっています。マラソンは48歳からはじめ、フルマラソンを11回完走しています。スペイン語も5年くらい勉強しています。まったく上手くなりませんが。
何をやっても物事が上手くなるというのは、音楽の場合と同じ行為です。それに、音楽だけに入り込みすぎると、ときどき見えなくなってしまうことがあります。でも、海に潜って亀をボヤーッと見ていると、違うイメージが浮かんできたりします。
僕のライフワークは、いうまでもなく音楽です。好きなことを好きなようにやっていて、お金がもらえる。こんなことでいいのかと不安がよぎるくらい、人生を楽しんでいる。まさに、趣味と実益を兼ね備えています。イチロー選手のようにストイックトレーニングしているわけでもなく、千住真理子さん(ヴァイオリニストで愛器としてストラディバリウスを所有)のように高い楽器が必要なわけでもなく、楽しいことを思い通りにやれて、本当にありがたいことです。ラッキーなことだと思います。
僕も60歳を迎えて、そろそろ引き際のことも頭をよぎります。自分の演奏にお金をとって聴かせるだけの価値があるのか、それともないのか、そこを線引きして、しっかり見極めたいですね。そんないま、いちばん大切にしているのは健康です。健康でないと音楽は絶対にできない。腱鞘炎にかかって音楽をあきらめた人も、たくさんいます。心の健康も含めて、健康さえあればなんとかなるとつくづく思います。
最近、僕は練習のための練習を全然しません。僕は表現者として、僕の音楽を聴いて楽しかったか、ハッピーになったか、を伝えたいわけです。そのための表現力、技術は多分すでに身についています。クラシックのように難しいカタチのある音楽とは違って、ジャズの場合、ひとつの音をポンと出すだけで人を感動させてしまう人もいます。百万語を使って感動させるのではなく、一言で人を感動させられるものがあるとしたら、大事なのは、どんな一言を、どんなタイミングで、どんなニュアンスで、どんな言い方で発すれば、みんなの心にスッと入るのか、それを得ることではないでしょうか。そう考えると、物理的な楽器の練習ではなく、感動を自分にいっぱいインプットすることの方が大切なのだと思います。感動をインプットしないと、感動をアウトプットできない。そういう意味で、いまの僕の練習は、海に潜るとか、映画を見るとか、料理を作るとかする中で、いろいろなアンテナを張って、感動をキャッチし、感動した理由を分析することなのです。
「自分が、自分が」より、
チームワークで作品づくりを。
僕は、プロとしてイチロー選手の姿勢が大好きです。イチロー語録という著書もよく読んでいて感銘を受けたのですが、そこで気づかされたのは、大記録というものは1日1日の地道な積み重ね、1日1日の厳格なルーティンからしか生まれないということです。
僕は天才肌でもなく、恵まれたバックボーンがあるわけでもなく、英才教育を受けたわけでもなく、しかもベースという裏方で、それでプロとしてやってきたわけです。そんな僕がプロとして大事にしているのは、まず準備を怠らないことです。例えば、明日のライブで演奏する曲を「これを聴いておいてね」と渡されたら、それを自分が納得するまでしっかり聴き込む。次に、ていねいに仕事をすることです。ていねいに準備し、現場でもていねいにプレイする。そして、持久力です。ベースの場合、フロントでプレイする人が次々に入れ替わっても、ひとりでずっとサポートしつづけなくてはなりません。そのためには、集中力を途切れさせずにエネルギーを継続させる持久力が必要です。
ジャズとは、ひとりでやるものではありません。最低2人、ビッグバンドになると15、16人、最大で60人くらいのオーケストラで演奏します。なので、チームワークはもちろん大事なのですが、もうひとつランクを上げると、価値観を共有すること、同じ方向を見ていることが必要です。海外のバンドを見ていると、それがよく分かります。何が美しいか、何が格好いいか、同じものが見えている。バンド単位で演奏することが多いからだと思います。
ところが、日本では個人個人で、その日はじめて会った人とプレイすることも多々あります。そんなとき僕は、相手のいいところ、不得手なところを見極めて、なるべくそれに寄り添うようにすることを心がけています。若いころは、方向性が違うと喧嘩をしているような演奏をすることもありました。しかし、お客さんの前でそんなことをしては、いい演奏にはならない。相手の不得手なところはフォローし、いいところを引き出すことで、ベストな落としどころを見つけ出すようにしています。
僕はこれまで、いろいろな人のサポートをしてきました。自分でもリードアルバムを制作したり、リーダーとしてセッションをしたりしたこともありましたが、最近では人のサポートがメインです。レコーディングやライブで、メンバーのひとりとして僕を呼んでくれるということは、そのバンドのリーダーやプロジェクトにとって僕の存在が何がしかの意味がある、あるいはプロジェクトそのものやリーダーの音楽をよりよくしているということであり、それがいまの自分のポジションをつくっているわけです。僕が加わることでリーダーやリスナーに気に入ってもらえ、いい作品が残せたら、それがいまの僕にとっての大きな成果ということになると思います。
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